死にたい私の生きる場所

生きづらさを共有したい。何の生産性もない日記。

死にたい私は八方美人

いい子でいるのを、やめようと思う。

自分で言うのもなんだが、幼少期から私は所謂「いい子」として育てられてきたように思う。最も古い記憶は小学生低学年の頃だ。下校中、周りと一緒にふざけながら帰ったら、貴方はしっかりしているんだからちゃんとしないと、というようなことを言われた。その当時は友人と同じように楽しくしていたのに、なぜお目付け役のようなことを言われるのだろうと、叱られ方の意味がわからず反抗心のようなものがくすぶった。ただ、私はそういう役割の人らしい、ということは理解した。
親から強制されたわけではないが、勉強はすることが当たり前だと思っていた。だから学業はそこそこできたし、周りの大人も褒めてくれた。知識が増えることは良いことだと信じていた。憧れの人は賢い人だったから、余計に私もそうありたいと思った。
大きな反抗期はなかった。家族から怒りやイライラを見ることが多々あり、そうならないでおきたいと思ったからだ。怒りは他人のイライラも増幅させる。余程のことがない限り、腹を立てることはなかった。
率先して、リーダー職を引き受けた。これも憧れのようなものが大きかったのかもしれない。多くの役をもらった。みんながやりたくなさそうな役職は、より積極的に引き受けた。そうあることで、他者から認められると思っていた。
初めは自分がしたいと思っていたことをしていた。していると思っていた。それが、だんだんと、他者目線で考え行動するようになったのは、果たしていつからだろう。

…大人になった私は、何かしらの役をもらうことで、周りから認められると思う人に育っていた。良く言えば聞き分けのいい子。悪く言えば利用しやすい子。周りの大人達は、学生時代に思っていたほど大人ではなくて、大人の世界は子どもの世界と同じくらい自由な一方で、社会的には限りなく不自由であることを知った。私が学生時代にしてきた「いい子」であろうとすればするほど、損をしている気持ちになった。

社会には様々なタイプの人間がいる。わかっていたつもりで、全く理解していなかったのだ。普段接している顧客より、同僚の方がよっぽど多様的であることに。

今私が暮らしている大人の世界は楽しくない状態だが、私が子どもの頃に見た大人の世界はもっと楽しそうに見えた。おもしろきことも無き世をおもしろく住みなすものは心なりけり、という高杉晋作の辞世の句を思い出す。いい子でいるのをやめて、自分が楽しいと思うこと、好きだと思えることをしたいと思う。そうして、私が子どもの頃に見ていた世界を子どもにも与えてあげたい。