死にたい私の生きる場所

生きづらさを共有したい。何の生産性もない日記。

死にたい私は悲劇を纏いたい

希死念慮やら季節性鬱やら自律性調節障害やらACやら、世間的に見てきっと明るくないであろう単語を連日検索エンジンにかけるようになってきたので、久々に書く。気づけばここに戻って来ずに1年以上経っていたらしい。時の流れは恐ろしい。死にたいと思いながら1年以上(いやもっと?)生き続けてきたのを思うと、なんとなく感慨深い。

 

昨日、最も病んでいた頃にお世話になっていた方にお会いした。その人曰く、私は「悲劇のヒロインを纏っていたいように見える」らしい。辛さを辛さとして表に出して、大変さをアピールして、誰かに心配されたくてたまらないような、そんな感じ。

 

最近自分自身でもそうなのだろうな、という境地に達し始めた。幸せなことがあっても手放しで喜べない。楽しいことは常に我慢して鬱積したものを晴らす手段。良いことの後にはそれと同じくらい悪いこともあると信じて。悪いことだって長くは続かないはずなのに、記憶や心に刻まれる思い出はだいたい苦しくてしんどいものだ。

そうしてますます自分が嫌いになっていく。暗い思考回路しかできない自分も、嫌な記憶ばかり残してしまう自分も。

 

そんな「自分が嫌いな自分」が好きなんだろうなとも思う。悲劇を引き当ててしまう自分が。檸檬の主人公がみすぼらしくて美しいものに惹かれたように、暗い自分には暗いものがお似合いだろうって。幸せになりたくない、辛さを背負っていたいって。

 

昨日お会いした方は、そんな私の幸せを願ってくれているらしい。きっとどこかで今の思考回路を断ち切る必要があるのだろうなと思いつつ、断ち切れる日なんて来るのか?と思う。幸せを、恐れているのだろうか。幸せの先で、いつかそれが壊れることを恐れているのだろうか。

 

やっぱり秋はなぜか自分の内面に心が向かっていくような気がする。寒さのせいなのか、日照時間のせいなのか、ただの中だるみ的なものなのか。分からないけれど、周りを見る余裕をもてる自分でありたい。周りを明るくすることはできずとも、せめて暗いところに引き摺り込まないような自分でありたい。

死にたい私と秋の夜

秋分も過ぎ去り、季節はとうに秋へと移ろってきた。死にたくなる度にここに戻ってきてしまう。結局身近なところには何も言えないのだろうと思う。貴方は私のことを知らない、そして私も貴方のことを知らない。そういう関係性で成り立つここなら、何を紡いだって許される気がして、つい筆が進んでしまう。

さて、今回の死にたい理由も何てことないただの多忙だ。それも、世間的にみたら甘えたことを言っているような、酷く幼稚で稚拙な、ただ働きたくないという、それだけの。忙しくなると、本当に心を失うような心地がする。

4月の繁忙期は耐えられるのに、なぜ9月の繁忙期は耐えられないのだろう。季節性うつ、なんて聞き齧った言葉を検索エンジンにかけては、何か違うと閉じるのを繰り返す。

きっとハタから見たら大したことない忙しさでダメになりそうな自分が嫌いでたまらない。助けてって言えない自分が嫌でたまらない。そうしてまた薬に手を出そうとする自分も嫌でたまらない。ようやく飲まずに過ごせるようになったのに。少し嫌なことがあっただけで。精神的に依存している。

泣きたいのに泣けない。疲れているのに眠りたくない、眠れない。もう何もかも全て投げ出してしまいたい。そんな勇気すらなくてまた自分が嫌になる。

…随分と支離滅裂になってしまった。まあここに来る時は毎回か、と思い直す。正常な時にはここは必要ないのだ。だって、ここは死にたい私の生きる場所だから。

長い長い秋の夜、願わくば共に祈ってほしい。明日は平穏無事で過ごせるように。無理に笑顔が作れなくてもいいから、せめて無表情にはならないように。何かに心を動かされるように。幸せのかけらを拾えるように。

死にたい私は眠りすぎる

春眠暁を覚えず、とはよく言ったものだ。最近眠りすぎて、延々と眠れて、自分でも少し心配になるくらいである。

久しぶりの休日だった本日は11時間眠った。起きたら12時を越えていた。その後、2時間ほど昼寝。そしてもうすぐ就寝といったところである。
どれだけ眠っても寝られそうな気がしている。疲れからなのか、それとも物忌みの時が近づいているからなのか。寝ても寝ても寝足りない感覚。眠りたくても眠れなかったあの頃に比べたらまだマシだろうか。

明日からまた仕事、今週は1週間フル稼働だ。こちらも体力がもつか若干心配なところはあるが、死なない程度に頑張ろう、と思う。

死にたい私と新年度

季節は巡り、春が来た。私が病院通いを始めてから2年が経つ。あの頃のように、仕事のものを見て泣いてしまうことはなくなったけれど、新年度、文字通り忙殺されて、限界の近づく音がするので、書く。

振り返ると、昨年度は職場を変わり、1からのリスタート。右も左も分からず苦労した代わりに、仕事量は大幅に減り、繁忙期なはずの3月はほとんど定時退社。悠々自適な生活を送らせてもらったものだなと思う。

新年度に入る前から、業務内容が増えることは薄々分かっていた。その業務自体は嫌いではない。むしろやりたかったことだ。ただ、それを抱えるがゆえの弊害、負担については、あまりにも浅はかな考えしか持っていなかった。

数年前に、身体を壊す前にはどうやって同等以上の業務量をこなしていたのだろう。一生懸命だったからだろうか。若かったからだろうか。分からない。
心はまだ大丈夫だけれど、身体と頭が限界に近づいている感覚がする。頭痛、食欲低下、睡魔。吐き気がないのと眠れるだけまだマシか。
とりあえず普段の180%くらいのハイテンションでお送りするこの新年度が早く落ち着くことを祈るばかりである。

死にたい私の憩いの場

緊急事態宣言が延長されてから2週間ほど。12月の自粛モードから数えると早2ヶ月ほど経つことになる。私にはかれこれ1年半ほど懇意にさせていただいているバーがある。その店は2ヶ月間ずっと閉まったままだ。

日頃からお酒を飲むタイプではないため、飲酒できないという現状はさして気にならない。
しかし、そのバーは私にとって憩いの役割を果たしていた。少し疲れた日、嫌なことがあった日、まっすぐ家に帰りたくない日、明日も頑張りたい日、そんな日には帰り道にふらっと立ち寄った。日常から切り取られた空間で、静かに良いお酒を飲んで、仕事ともプライベートの友人とも離れた近くの他人の話に耳を傾ける。力んだ身体から力が抜けていくような感覚がした。

息抜きする場所と時間が限られている世界が窮屈で仕方がない。
体調は相変わらず波の変動を繰り返している。吐き気はほとんどないが、頭痛はほぼ常に。昨年の減薬をしていた頃と、症状が似ているかもしれない。秋冬の寒さが身体に堪えているのか、そんなことを考え始めた今日この頃。早く落ち着いた春が来ることを、憩いの場が戻ってくることを、切に願う。

死にたい私は波がある

躁鬱、という言葉が正しいのかは分からないが、気分の波に振り回されている気がしている。そんな近況報告。

新年開けて仕事が始まって2週間と少し。仕事は通常営業でこなせるようになった。しんどさ、謎の疲れや眠気はあるものの、人前に立つことは叶っている。表面上うまく回っている、はず。

相変わらずセルトラリンは25㎎ずつ、毎日。効果のほどは定かでないが、次の日を戦うための精神安定剤的な役割を果たしているような、そんな現状。朝の吐き気は1月入ってからなくなっているものの、そろそろ再発しそうな予感。

プライベートは消費する趣味の世界で精力的に動けているものの、それがむしろ体力を奪っている気配がしてならない。
夜更かしゲーム、起きられない、憂鬱で仕事、日中の眠気と頭痛、にも関わらず仮眠をとろうと思ってもうまくいかない。眠れない。

久しぶりにリーゼを飲んだら頭痛は消えておやすみ3秒レベルの眠気が。ふらふらする。まだまだ全快にはほど遠いか。プライベートでのアクティブさを少し減らした方が良いのかもしれない。

死にたい私と持続可能性

年が明けてから、10日ほど経つ。数ヶ月前より体調は幾分かマシになった。しかし心は相変わらずうつむき加減である。何故かは分からない。

職場を変わって本格的に働き始めてから半年経ったが、仕事に対するモチベーションはずっと平行線のままだ。つくづく社会人に向いていないと思う。

仕事があって、休みもとれて、お給料も生活に困らない程度もらっていて、休日には遊べる友人がいて、彼もいて、世間的には死ぬほど恵まれている環境でぬくぬくと過ごしているように感じる。
にも関わらず、私はちっとも幸せな気分ではない。我が儘なんだろうか。欲張りなんだろうか。
何が叶えば満たされるのか、分からなくなってしまった。

相変わらずセルトラリンにはお世話になっている。毎日、25mgずつ。効き目はあまり感じていない。飲めばマシになるはずという、精神安定剤のような役割になってきた。
…もっとも、外に出かけられるようになったから、毎日仕事に向かえているから、効いていないということは無いのだろう。

徒然なるままに書き散らしたが、この調子で私はあとどれくらい生きるのだろうと、つい無駄なことを考えてしまう。持続可能性。そもそも私自身が持続させるに値する人間なのか、というのにも疑問を感じているが。社会よりも地球よりも先に、滅びるのは人なのではないかと、そう感じずにはいられない。