死にたい私の生きる場所

生きづらさを共有したい。何の生産性もない日記。

死にたい私がなぜか議長

人前や先頭に立つことは本当に向いていないとつくづく思う。

本日は、なぜか議長になってしまった会議の日だった。(ちなみに議長は一応自主的にやると言ったものの、やり手がおらず、順番的に…という忖度から来ている。)通常であれば1時間、早ければ30分程度で終わる会議が、本日は2時間かかった。
議題は次年度に関することが主だった。本音を言うと、来年は私はそこにいないにも関わらず、次年度に関する話し合いの手綱を握り、議事を進行することに、ものすごくしんどさを覚えた。辛さの極みだ。しかし今年度が終わっていない以上、やらねばならない。会議の出席者は先輩が多く、すべて年上であったため、そこにも気遣いを要した。

朝からなんとなく頭痛が続いていた。その会議があったからかもしれないと、終わってから思う。薬を飲んだけれども、結局頭痛は収まらなかった。満足に睡眠時間がとれていないのも要因かもしれない。会議の後処理は膨大で、明日からまた死にそうになりながら馬車馬の如く働くのだろうと思うと憂鬱だ。明日は2週間ぶりの通院、定時は越えるにしても早くあがれるといいのだが。

死にたい私と猫

猫になりたい。

本日の帰宅途中、猫を見かけた。彼はコンビニの前に座っていた。自動ドアのすぐ脇だ。人が出入りし、それが開閉することを気にも留めず、ずっと居座り続けた。観察していると、そのうちそこで寝てしまいそうな勢いだった。思わず写真を撮ってしまった。

猫を見かけると、つい写真を撮りたくなる。(余談であるが、アイコンも職場を闊歩していた猫を激写したものである。)彼らは可愛い。自由気ままだ。こちらのことなんか気に留めない。我が目の前に1本の道ありといった様子で奔放に生活する彼らが、少し羨ましい。

死にたい私は寂しがり

人と関わることが苦手なはずなのに、人と関わらずにはいられない。

夜になると、そこはかとなく寂しさを感じることが最近多い。彼に出会ってから、それはより一層顕著になった。
約2週間ぶりに彼と連絡をとった。声が聞ける、それだけでも、随分ほっとする。ふと気を抜いたら時間も人間関係も全て職場にもっていかれそうになるところを、彼が食い止めてくれる。
元々私は末っ子気質だ。甘やかされて育てられてきた、という自覚がある。ただ大人になるにつれて、人に甘えることが下手になった。甘え方がわからなくなった。正直に寂しいと言えばいいものを、それを口にするのがはばかられた。
寂しさは電話で一時的に紛らすことは可能だが、根本的解決には至らないのが難点。素直と我が儘の狭間で揺れる。
そうして一抹の寂しさを抱えながら、消化不良の状態で、今日も眠りにつく。明日からまた1週間仕事だ。(正確には本日から始まっている。)最近は翌日が休日明けの仕事日の時だけ、導入剤が必要になる。果たして今日はきちんと眠ることができるのだろうか。

死にたい私とミルクティー

私の身体は5時間もたないことがわかり、絶望した。

年末から、最近会えなかった人に沢山会うことを目標に、食事に行ったり遊んだりすることが増えた。本日も約1年ぶりに某友人と会い、カフェでケーキや紅茶をお供にして、おしゃべりに花を咲かせてきた。
本日会った友人は、いい意味で何も変わっていなくて、安心した。私の方が、多くのことが変わってしまったように感じた。友人は独特の緩やかな空気感をもっていたが、それが心地よかった。共通の友人の話題や、行きたい旅行先の話などで盛り上がった。

その友人は何も悪くないのに、長時間外にいたせいか、はたまた長時間会話をしたせいか、酷く疲れてしまった。これもうつ症状のひとつなのだろうとぼんやり思う。先週の女子会も今日と同じ症状が出ていたのかもしれない。好きで出歩いて、好きで人に会って、好きで遊んでいるのに、それで疲れてしまうのは酷く悲しい。
吐き気は全くなくなり、睡眠はそこそことれるようになった。頭痛もほとんど起きなくなった。回復はしているはずなのだけれど、したいことが満足にできない身体に、もどかしさを覚える。

死にたい私とゲーム

ここではない世界を生きてみたい。

最近ラノベや漫画で異世界転生ものが大量生産されているように感じる。それをいかがなものかと思う一方で、私にも転生願望なるものが少なからず存在する。もっと言ってしまえば、別世界に私があらかじめ存在し、その世界で縦横無尽に動き回りたい、という願望がある。

ゲームの世界、とりわけRPGは、その願望を叶えるためにうってつけのものだと思う。幼少期からポケットモンスターシリーズが好きだった。最新の剣盾まで一通りストーリーを楽しんできた。画面の中の人物が私の名前を語り、世界を冒険していく様を見るのは楽しかった。

さて、そんなポケモンでダンジョンのリメイク版が出るという。ダンジョンはまさしく転生もので、人間だったはずの自分が何故かポケモンになってしまっている…というところからストーリーが始まる。ネタバレになるので多くを語るのは控えるが、人助けならぬポケモン助けをしていく優しい世界が好きだった。エンディングでは思わず涙を流したほどだ。

社会に出てからめっきりゲームをする時間も減ってしまったように感じている。子どもの頃と違わず、子ども心を携えて、ゲームの世界に浸りたい。(要はポケモンダンジョン欲しいな、というお話でした。笑)

死にたい私はエネルギー不足

1日が、1週間が、果てしなく長い。

週の終わりがけ、木曜日は精神的にも肉体的にも最もキツい。加えて今年の私の業務は水木がハードなのだ。ただでさえまだ万全とは言えない状態で働いているのに、死ぬのではなかろうか、という疑念が頭をもたげる。
明日は金曜日、平日が終わる。業務も終わる…と言いたいところだが、日曜は出勤である。来週は祝日も特殊業務もなく、フルタイム勤務なのだが、果たして身体はもつのだろうか。(余談ではあるが、頭痛薬と睡眠導入剤の使用回数は減ってきたので、良い兆候とは言えるけれど。)

死にたい私の大人観

今こそ子どもらしさを取り戻せ。

今週のお題「二十歳」に寄せて。20歳になった頃は、大人になった、という感覚は正直全くなかった。学生という身分であったからかもしれない。社会に出てから、特にここ数年で、知らない間に大人と呼ばれる生き物になってしまった、という感覚が強い。周りから大人として扱われる機会が増えたから、自然とそれらしく振る舞うようにもなっている気がする。…当の心は、幼稚な世界に置き去りだと言うのに。

冒頭の文は中学生の頃、恩師から「10年後の君たちへ」という題で授かったフレーズである。彼は当時の私から見て大人に見えていたが、実際に彼の年齢を越えて、それが幻想であることを知った。年齢だけを重ねて、彼のような立派な大人になれている感覚は全くなかった。
…このフレーズには続きがある。「自分に限界を作るな。夢をもて。昔の君たちは毎日楽しそうに笑っていた。」さて、私は最近笑えていただろうか?楽しく過ごせていただろうか?
大人になると、諦めることが得意になる。しかし、そんな大人達を見て、子どもはどう思うだろうか?夢も、希望も、あったものではない。

子どもらしさとは、何事も楽しむ心、夢中になること、熱中する心、無邪気であること…そのようなものを指しているのではないだろうか。わがままという類いのものではなく、好きなものをただ好きだと言える、それに向かって行動できる、純粋な心。彼の文章を読み返しては、子どもらしさを忘れない大人が真の大人たりえるように思う。そして、子どもにロールモデルとして、子どもらしさを備えた大人を示していきたい。