死にたい私の生きる場所

生きづらさを共有したい。何の生産性もない日記。

死にたい私は駆け上がれない

20代は最も人生にバラつきが見え始める時期だ、と思う。

先月の半ば、高校時代の友人(と呼ぶにはだいぶ疎遠となってしまった方)が結婚を決めた。数日後、趣味の領域で出会った1つ年上の方が入籍をした。1週間後、大学時代の友人が結婚して苗字を変えた。先月末、数歳上の親族が妊娠した。今月初め、大学時代の別の友人が旦那の転勤で遠くへ行ってしまった。本日、インターネットの世界で出会えた1つ年上の方の妊娠が発覚した。

ほんの少し前から、そのラッシュの気配は感じていたのだ。仕事が安定して、結婚して妊娠して出産して子育てして。そうして様々なことが変わっていく。人生の階段を駆け上がっていく。
他方、仕事に就けていない親類もいる。離婚してしまった友人もいる。結婚を悩む相手すらいない人もいる。大学や専門学校に戻った友人もいる。

さて、私はどこに向かっていきたいのだろう。少し前までは、このようなことを考えることそのものが贅沢だった。毎日死にたいって思っていた。ただ今日1日をどう生き延びるかで必死だった。それに比べたら今の悩みなんて贅沢で喜ばしいことだ。
少しずつ、目に見えない圧力がかけられているのを感じる。単に私が感じているだけなのかもしれないけれど。

学生時代はロールモデルがちゃんといて、「みんな」と同じようにレールに乗っかっていれば通り過ぎていくだけだった。
社会人になった今、レールは呆気なく外された。進むペースも、進む道も、何もかもが違うようになった。そもそも道なんて存在していない。荒野だ。
この荒野を、自分がどう進みたいか、決めるのは自分自身であるはずなのに、全く分からない。私だけ就職した時と何も変わらぬまま、取り残されている気分だ。