死にたい私の生きる場所

生きづらさを共有したい。何の生産性もない日記。

死にたい私と料理

私はやっぱり、食べることがどうしようもなく苦痛だ。


最近料理を始めた。家ではなく、教室で。食が身体を受け付けてくれなかったことや、そもそも食に興味のない私からすると、青天の霹靂、天変地異でも起こったのではないかという有り様だ。
思い至ったのは他でもない、今の相方と、もしかしたらまだ見ぬ未来の相方に対して。自分が生きるための料理は作れないけれど、他人と共に生きていく可能性が1ミリでもあるのならば、料理くらいできなければ、と思った次第。

結論からいうと、料理自体は嫌いではなかった。苦手ではあると思うけれど、少し積み重ねれば私でも何か作れるかもしれない、という気持ちにはなった。他人のためなら尚更、頑張れるかもしれないとも。

問題は「食べること」の方にあった。教室で作る料理は、当然ながら当人が食べなければならない。
苦痛で仕方がなかった。与えられたその量が。さらに言うとその量を消費しなければならない時間が。多少の好き嫌いは我慢する寛容さくらい備えている。けれど量は別だ。食が身体を受け付けるようになってからも、1人前と呼ぶには程遠い量で私の身体は順調に回っている。0.7人前で私の身体は動くのだ。

にも関わらず、出される量は当たり前だが1人前である。食べきれない量が目の前に置かれる絶望。
しかもそれを15~20分くらいで消費しなければならない。手のひらサイズのお弁当でさえ30分かけて食べる私に、食べきれるわけがない。しかし捨てるわけにもいかない。八方塞がりである。

そうして無理やり消費を続けているうちに、小学生時代の苦い記憶が甦ってきた。食べきれずに昼休みに突入しても食べ続ける私。周りが他のことをしているのに、私だけちっとも次に進めやしない。
私の食嫌いのルーツはきっとここにあったのだろう。先日料理教室は楽しいかと聞かれた。食べること、この1点に関しては楽しいと思えるようになる気がしない。